June 27, 2005

STS Network Japan 夏の学校2005 のお知らせ

 STS Network Japan 夏の学校2005
「専門家」をどうとらえるか−「専門家と非専門家」図式の検討を通して−
 のお知らせを公開しました。

 詳しくは
 http://stsnj.org/nj/schedule/school05.html
 をご覧ください。


企画の目的
 科学技術の社会的側面についての関心が高まってきています。科学技術に対し、市民参加をどう行うべきか、市民はどう関与すべきか、などの問いを議論する機会が増えています。その議論をするときに、専門家批判の文脈で「専門家と非専門家」という図式で語られることが多いように思われます。この図式は、たとえば、コンセンサス会議、合意形成モデル、科学コミュニケーション、科学技術倫理の文脈などで散見されます。今後、非専門家がオールタナティブの専門性を探っていく道を社会として選んでいけばいいのでしょうか。あるいは、常に非専門家側のオールタナティブが正しい、というのでは、専門的知の正統性を疑わない態度と等しいので、専門的知の正統性にメスが入らないという迷路に入ってはいないでしょうか。

 「専門家と非専門家(市民)」という図式が人々に違和感を与える場合もありえます。今春開催された市民参加手法会議「市民が考える脳死・臓器移植」に市民パネルとして参加された方が感想で、「専門家と市民」という対立した枠組みのなかで『合意を目指して市民としてふるまうよう要求させられていた』と述べておられます。「合意を目指すために個人的な発言をためらうような場の雰囲気があった」と感じておられた方もいました。市民パネルには相反する二つの側面が求められていたのではないでしょうか。市民パネルには、(1)「専門家」がとらえきれない、個別の関心・意見をもった多様な主体として発言すること、(2)「市民」として価値中立な立場として発言すること、の相反する二つの役割が求められていた、と考えられます。果たして、この二つの役割は完全に相反したものなのでしょうか、それとも両立できるものなのでしょうか。

 また、このような「専門家と非専門家」が同じ場を共有し議論する会議において、専門家(情報提供者)の役割についても考えなければいけません。議論するテーマが個人の死生観にかかわる場合、だれもが死生観についての「専門家」になりうるので、プロフェッションとしての「専門家」の生産する知、「専門家」の発言は、社会にどのように位置づけるべきかが問題になります。「非専門家」ではとらえきれない、どのような知を「専門家」は生産しているのでしょうか。「専門家」の生産する知は、社会に役に立っているといえるのでしょうか。

 「専門家」と「非専門家」が同じ場を共有する場面において、(1)「専門家」だけではとらえきれない側面を「非専門家」がどのように扱うのか、(2)「非専門家」だけではとらえきれない側面を「専門家」がどのように扱うのか、の両面から、社会における「専門家」の役割を考える必要があるのではないでしょうか。このことは、「専門家」だけでは判断がつかない様々な現代の問題を少しずつ解決する上で非常に大切なことだと思われます。

 科学技術の社会的側面に興味関心ある人たちどなたでも参加をお待ちしています。多方面の分野の人たちが各自の分野の視点で、専門家とは何なのか、専門家が専門家たるゆえんは何なのか、専門家が社会で果たしている役割は何なのか、どのようにして専門家が生産する知を利用して問題解決に進めていけばいいのか、などを考えて議論に参加していただけると幸いです。なお、本テーマ以外でも自由発表を受け付けておりますので、皆さんの意欲的な発表をお待ちしております。

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